その他

サイト運営者プロフィール

基本情報

・ニックネーム テツ

・年齢 35歳

・外資系化成品メーカー 勤務(事務/輸入担当/社内システム担当)

・妻と娘と3人暮らし、第2子がもうすぐ産まれる

幼少期:

埼玉県越谷市で産まれました。

会社員の父と専業主婦の母、そして1つ下の妹。

父は毎日始発から終電の多忙で、ほとんど会えていませんでした。
私の誕生日はケーキを買って早く帰って来てくれましたが、父を父だと認識できておらず、翌朝家を出る父に向かって「おじさんまたケーキ買ってきてね」と見送っていました。

私が3歳のころ、補助輪付きの自転車に乗ってスーパーへ母と買い出しに行き、荷台にお米を括り付けて家まで運んでいました。

「お母さん大変だから僕が運ぶよ!」と、まだ小さい妹を抱えてないといけない母を、小さいながらも助けたいという気持ちがあったのかもしれません。

アメリカに引っ越し:言葉が通じず毎日泣く

4才で父の仕事の都合により、アメリカ・ミシガン州に引っ越しました。

英語が喋れない私は、幼稚園と小学校では先生や同級生との言語の壁に苦しみ、
帰るときは毎日泣いていました。

学年が上がるにつれて先生との会話は問題なく出来るようになりました。
同級生とも少しずつ仲良くなり、休み時間に一緒に外で遊んだり、放課後は家に呼んで一緒にテレビゲームをするようになりました。

一方で私は日本に早く帰りたかった。

両親が小学館の『小学●年生』を定期購読してくれたお陰で、
「日本は今ポケモンやミニ四駆、ハイパーヨーヨーが流行っているんだ」
など、その都度知ることができました。

毎年夏休みになると2,3週間ほど一時帰国しては祖父母の家に遊びに行き、
近所のイトーヨーカドーに連れて行ってもらっては、アニメやマンガ、
ゲームやオモチャが置かれたお店でずっと過ごしていました。

4年生の夏、ついに日本へ本帰国することが決まりました。
同級生への挨拶も、最終登校日の放課後に教室に残っていたクラスメイト数名へ”Bye”とだけ告げて帰宅しました。

日本で生活できる。日本の学校に通える。
雑誌で見て憧れていた環境をついに体験できると、楽しみで仕方がありませんでした。

日本へ帰国:一蹴される憧れ

小学校4年生の夏に日本へ帰国し、横浜の市立小学校へ
夏休み明けの2学期から転校しました。

「日本の小学校に通える」と憧れの気持ちでいっぱいでしたが、
転校初日から色あせてしまいました。

「アメリカから来た」という珍しさから転校初日に
「調子に乗るな」と絡まれ胸ぐらを掴まれました。

咄嗟に、マンガの見様見真似でしたが、そのまま一本背負いをしたら
キレイに決まってしまい、偶然見ていた先生に登校初日から叱られました。

言葉の壁にも少々苦労しました。

「日本語同士なのに何故?」と思うかもしれませんが、
私は「ダサい」「うざい」という言葉の意味を知りませんでした。

私は当時も今もポケモンが好きですが、同級生が
「ポケモンはダサい」と言っていたのをダサい=好きの今風の言い方
と思い込み、母の前で真似て言ってみたら不思議がられました。

意味を知ってからは関係悪化やいじめ回避のために、本当の気持ちは心の中に留めて一人の時にこっそりと楽しむことを意識しました。

幸いイジメにあうことは少なかったのですが、その代償として「好きなものを好きと言いづらい辛さ」は感じていました。

中学〜高校:陰を愛した6年

東京の中高一貫校に進学しました。

人間関係も新しくなりましたが、部活に入ることで自分自身に「所属」というステータスを与えようと考え、ただの「テツ」から「サッカー部のテツ」になりました。

ステータスのためとはいえ部活は高校3年の引退まで真面目に6年間所属し続け、ベンチでしたがチームは創部以来最高成績の東京都ベスト16まで勝ち進みました。

引退式で監督に言われたのですが、「テツはレギュラーを奪ってやろうって熱い気持ちより、仲間を支えたい気持ちと行動にはとても真面目で強く感じた。レギュラーが強くなれたのも、その支えのおかげだ。」と言われました。

プレイヤーの一人としては失格な評価かもしれませんが、自分としては嬉しいと感じ、自分は裏方側が好きなタイプなのかなと感じました。

ある年の文化祭では、準備を張り切りすぎて本番当日に熱を出して欠席してしまいました。

何とか2日目は回復して登校しましたら、「よりによってなんで準備から一番楽しんでたお前が休むんだよ!」とクラスから総ツッコミを受けました。

「みんなに楽しんでもらいたい」という気持ちで、学級委員や行事の実行委員は毎年コンプリートを目指して取り組んでいました。

大学生:単位より受験生の合格

「慶応義塾大学にいくぞ!」と口では言っていましたが、勉強は出来る方ではなく成績も伸びず、それでも一浪してなんとか明治大学に入学することができました。

両親からは「1年浪人した分、大学4年目の学費は自分で捻出しなさい」と言われました。

とにかく稼がないといけなかったのですが、どうせなら自分の受験経験を少しでも活かしたいと考え、大学受験の予備校で事務のアルバイトをしつつ、大学生の立場から予備校生の相談にのるなどしていました。

初めは学費のためにバイトばかりでした。

当時の楽しみも預金残高が増えているのを眺めることでした。

また「受験生の力にもっとなりたい」という気持ちも強くなっていて、講師にアシスタントを申し出たり、高校生の定期テスト対策会で数学を教えたり、ただの学費のためのバイトだったのが、受験生を応援することに目的が変わりました。

散在するような趣味もなく、とにかく受験生のために私が出来ることを実践して受験を支えました。

また3年目までに140万円貯金し、私自身も何とか4年目の学費を用意することが出来ました。

新卒入社:上司のパワハラから毎週逃亡

東証一部の製紙会社に入社しました。

新人研修後の最初の辞令で地方の関係会社への出向を命じられ、地獄の始まりでした。

課長からの最初の挨拶は蹴りでした。

デスクでも工場内でも毎日のように罵詈雑言を浴びせられ、予算が無くても「何とかするのがお前の仕事だろ」と無理難題を突き付けられました。

現場で働く現地採用社員からも「お前俺らより10歳以上若いのに、親会社採用だから給料は俺らより高いんだろ?」となめられっぱなしでした。

結果としてどうすることもできない仕事ばかりが次々と増え続けました。

しかし毎日パワハラとモラハラを受け続けていた私は状況を冷静に受け止めることができず、言われるがまま自分の能力の無さだと責め続けていました。

唯一の救いは、車で実家まで片道2時間もかからなかったこと。

毎週末金曜日の仕事終わりに実家へ帰って両親や友人と過ごすことで現実逃避をしていました。

精神は全く保ててなくて、「寝たら朝を迎えることなくそのまま●んでたりしないかな」と毎晩考えていました。

1年が経ったころ、別の関係会社で人員不足となった部署があったため、課長も私を手放せると思い白羽の矢を立てて私を補充要因として追い出しました。

形式的に開いてくれた送別会では、香典返し用のお茶パックを手渡されました。

後から知った話ですが、前課長は外注業者との癒着やコンプライアンス違反で地方送りになったようです。

別の関係会社へ移った私は、「まずは1年全力でやって、自分に自信をつけよう」と考えて必死に打ち込みました。

幸い上司と先輩、また会社内での人間関係にはとても恵まれ、新しい課長からも「前課長からどんな人材かと連絡を受けていたが、仕事も早いしまったく信じられない」とおっしゃっていただきました。

1年が過ぎたころ、海外工場新設のための部署が立ち上がりました。

ゆくゆくは私も海外で働いてみたいという漠然とした憧れがありましたが、一方で自分にはそれに足る語学力がないことに気づきました。

将来の選択肢を増やすため英語に力を入れようと思い立ち、上司へ相談して快く背中を押してもらい、辞める決心をしました。

28歳 英語漬けの365日

地元横浜に戻り、ECC外語学院・横浜校に通い「平日5日間、朝から晩まで英語漬け」の専科コース(現:英語キャリア育成コース)を受講し始めました。

年間受講料はおよそ120万円と高額でしたが、退職前の冬のボーナスと退職金、持ち株の売却で予算を捻出し、不足分は分割払いでミスドの早朝バイトをしながら支払いをしていました。

私と同じ年に受講したメンバーは年齢もキャリアも英語力も様々でしたが、みんな学ぶ姿勢と基準値がとても高かったです。

レベル別にクラス分けされていましたが分け隔てなく自主的に交流していました。

「今年は過去最高の環境だ」と長年講師をされている方もおっしゃっていました。

私自身も環境とメンバーに助けられ、最終的に

TOEIC:710点→910点
英検:2級→準1級合格

を達成することができ、3月の卒業前に現在の外資企業の日本法人に転職を決めることができました。

32歳:第一子誕生、初めての副業

ECC時代に出会った彼女と結婚し、結婚2年目の春に第一子となる娘が産まれました。

同時に将来に向けて経済力をつけ必要があると考え、「とりあえずTwitter始めてみよう」と発信をし始めました。

ある日とても親切な文面で「私もパパで副業を頑張っています。よかったら直接会ってお話しませんか?」とDMが届き、新宿のルノアールで会ってみることにしました。

怪しかったら速攻で断わって帰ろうと思っていました。

実際に会ってその方のお話を伺うと

子ども2人いる会社員
これまで6年副業をしていたが売り上げは0
今の環境とメンターに出会って教わり収益化
現在は家族で毎年ハワイ旅行&妻にクレカ好きに使っていいと渡してる
ゆくゆくはハワイに移住して現地の学校に子どもを通わせたい

ファンタジーのような話が次々と展開され、しかし当時の私は引き込まれました。

この人は自分と同じ会社員で、副業の先輩で、結果の出し方を知っている。

私はその方が身を置いている環境に自分も参加すれば結果を出せるかもと思い、
サポート代として数十万円を支払って参加しました。

またその方がメンターとして指導してくださることにもなりました。

………が、

結論から言うと、私は1円の結果も出せずにその環境から離れました。

最大の理由は私が結果が出るまで行動し続けられなかったことだったのですが、

最大ではない理由は、出来ないのはマインドが低いせいだと否定されたことです。

Twitterを使ったDRM(ダイレクトレスポンスマーケティング)を営業手法として紹介されていました。

インフルエンサーのアカウントをフォローしている「フォロー・フォロワー数が少ないアカウント」をフォロー

フォロバされたらTwitterで定型文DMを送り、自分の公式ラインに誘導

公式ライン登録者に特典と称してオプトインアフィリエイトの記事へ誘導して紹介

公式ライン登録者を言って以上増やせたら自分の商品を作成し、登録者へは商品購入に至るまで教育配信していく。

実際参加者の中には上記の方法で自分の商品を販売し、100万円の売り上げを達成している方もいました。

Twitterで見ず知らずのアカウントに営業DMを送る行為が精神的にきつかったです。

フォロバされるのもフォローの約1割。せっかくDMを送れても「え?急にDMとか何?」「詐欺?」とアカウントブロックをされたりもして、行動=辛いと感じていました。

またその環境では毎週末、都内で2時間オフラインセミナーを開催して、ノウハウやマインドセットのために毎週参加することを推奨していました。

しかし私は、子どもが生まれたばかりで妻も産後でまだ動けなかったため、会社以外の時間は家族の時間に優先して充てたいという気持ちでした。

メンターに週末は参加できないことを相談すると、「意味が分からない」と一蹴されました。

遠方でもないのに何故来れないのか
成功している人はみんな毎週参加している
移動含めてもせいぜい4時間。なぜ予定できないのか
本気でやりたいって思っているなら何が何でもくるはずだ
子どもの世話だってその時間奥さんにやらせればいいだけでは
本気だったら子どもや奥さんのことなんて顧みずどうにかしようとする

正直ショックでした。

参加時は尊敬していた先輩パパさんだと思っていましたが、
家族に対する考え方でまったく合わないと感じ、「環境から逃げる」ことを決めました。

結果も出せず、行動もなかなか出来ない私の相手をする時間が無駄に感じていたのかもしれませんが、正直私にはそれでもいいと思えていました。

結果として私は「売上0」という形でこの副業を辞めました。

35歳~:動画編集を学び、初収益化

暇な時間はダラダラとYouTubeを見ていた2021年。

時折流れるショート動画の中にとても惹かれるチャンネルがありました。

「社長!」「うっす!」

このフレーズが頭にずっと残り、そのチャンネルの他のショート動画も見漁るようになりました。

勝 友美-VICTORY CHANNEL-

時には笑いもある女性社長のそのチャンネル内動画のメッセージやマインドは、

それまで文字や言葉だけで見知ったものとは異なり、芯があって心を震わせる内容でした。

それから1年後の2022年11月、私は勝さんのVICTORY SALON ONLINEに入会しました。

そしてその1か月後の2022年12月、同サロン内で開講されたYouTube動画スキル講座を受講しました。

受講開始2ヶ月後、ついに初収益化を達成しました。

その額、2000円。

私にとってはとても大きく、長く、そして念願の初収益でした。

その後もご縁を多く賜り、3ヶ月で合計5万円の収益を動画編集で達成できました。

何よりも嬉しかったのがクライアント様からの「ありがとう」です。

売上は「ありがとう」の数

勝さんもおっしゃっていました。

積み上げて体感したからこそ、そな言葉の嬉しさも重みも人一倍感じられました。

そして

私が副業をやろうと思い立ったきっかけは「家族」の存在です。

我が家は夫婦共働き、第一子は3歳で、間もなく第二子が産まれてきます。

現在は保育園に通っているので18時半まで預かってもらえていますが、3年後に小学校へ進学したら16時ごろには小学校から返ってくるでしょう。

今のままでは鍵っ子になって、仕事を終えて帰宅するまで独り寂しく待たせてしまう結果になります。

最大の原因となっているのは現在の本業です。

時間と場所に縛られた今の働き方では、家族の動きに合わせた柔軟な行動がどうしてもやりづらい。

しかし近場に転職しようとしても給料が下がるので生活が維持できなくなる。

この状況を打破するには、現在の月収以上の収入源を、本業以外に1つ以上作る必要があります。

そしてそのための具体的は手段が「総合WEBマーケティング」です。

現在の月収30万円に加えて、1年後には月収50万円を目指します。

現在の私は、この目標達成に向け、カリキュラムに沿って一つ一つの課題に取り組んでいます。

目標を達成することで、いざとなれば会社を辞める選択もできます。

この心の余裕は、同じ会社員ならばきっと共感できると思います。

そして私は

スキルも経験もないけれど、家族の将来のために会社だけに依存せず個の力をつけたい」と思っているすべての方の道しるべとなれるよう

このブログを通じて私が学び実践していくことをすべて発信していきます。

ここまで読んでくださりありがとうございました。